Read the New Testament in 24 Weeks
私はあなたがたの使徒です
9 私は使徒ですから、他のだれからも自由なのです。私は実際、この目で主イエスを見た者です。あなたがたの人生が一変したのは、私が主のために一生懸命働いた結果なのです。 2 たとえほかの人が私を使徒と認めなくても、あなたがたにとって、私は確かに使徒なのです。あなたがたは、私を通してキリストに導かれたのですから。
3 私の使徒としての権利を問題にする人たちに対して、次のように答えることにしています。 4 いったい私には、どんな権利もないのでしょうか。ほかの使徒たちのように、あなたがたの家で、客としてもてなしてもらう権利はないのでしょうか。 5 また、もし私にクリスチャンの妻があればの話ですが、ほかの弟子や主の兄弟やペテロ同様、妻を連れて旅行もできないのでしょうか。 6 ほかの使徒はあなたがたから生活費をもらっているのに、バルナバと私だけは、生活のために働き続けなければならないのでしょうか。 7 いったい、自費で軍務につかなければならない兵士がいるでしょうか。丹精した作物を食べる権利のない農夫の話など、聞いたこともありません。世話をしている羊や、やぎの乳も飲めない羊飼いがいるでしょうか。 8 私は、人間的な考えで言っているのではありません。律法でも同じことを言っているのです。 9 神様は、モーセにお与えになった律法の中で、「穀物を踏んで脱穀している牛に口輪をかけて、その穀物を食べる自由を奪ってはならない」(申命25・4)と言っておられます。神様は牛のことだけを心にかけて、こう言われたのだと思いますか。 10 私たちのことも、心にかけておられたのではないでしょうか。働く人が、その人のおかげで益を受ける人々から報酬をもらうのは当然であることを、神様は教えたかったのです。耕す者も脱穀する者も、当然、収穫の分け前にあずかることを期待してよいのです。 11 私たちはあなたがたの心に、良い霊の種をまきました。とすれば、そのお返しとして食べ物や着る物を求めるのは行き過ぎでしょうか。 12 あなたがたは、神のことばを伝えてくれたほかの人たちには、そうした必需品を提供しています。それは当然のことです。すると、なおさら私たちは、それらを求める権利があるはずではありませんか。けれども私たちは、一度もこの権利を持ち出したことはありません。かえって、働いて自活し、援助を受けませんでした。どんな報酬も求めなかった理由は、キリストの福音を妨げるのではないかと心配したからです。 13 あなたがたは、神殿の奉仕者が神にささげられる食べ物の一部を自分のために受け取ってよいことを知らないのですか。また祭壇に仕える奉仕者は、主へのささげ物の一部をいただくのです。 14 同じように主は、福音を宣べ伝える者が、それを信じるようになった人々から生活を支えてもらうように定めておられます。 15 けれども、私はあなたがたにわずかなお金も要求したことはありません。今からでもそうしてほしいと、ほのめかしているのでもありません。実際、無報酬で主のために働くという誇りを失うくらいなら、私は飢え死にしたほうがましです。 16 それというのも、福音を宣べ伝えても、別に私の名誉にはならないからです。たとえやめたいと思っても、やめるわけにはいきません。当然、果たすべきこの任務をもしやめたら、全くみじめなことになります。福音を宣べ伝えなかったら、私は災いに会います。 17 もし、自分から進んでこの務めを引き受けたのであれば、主は私に特別な報酬を下さるでしょう。しかし、そうではなかったのです。神様が私を選び出して、この聖なる任務につかせてくださったのであって、選ぶ自由などなかったのです。 18 このような状況で、私の受ける報酬とはどんなものでしょう。だれにも負担をかけず、自分の権利を少しも主張せずに、福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び、これこそ私の報酬なのです。
19 これにはまた、すばらしい利点があります。だれからも給料をもらわないということは、だれからも自由だということです。けれども私は、一人でも多くの人をキリストに導くために、自ら進んで、また喜んで、すべての人の奴隷となりました。 20 私はユダヤ人といっしょにいる時は、ユダヤ人のようにふるまいます。それによって、彼らが福音に耳を傾け、キリストに導かれるためです。また、ユダヤ教の習慣や儀式を守っている外国人といっしょにいる時は、私自身はそのことに同意していなくても、議論したりはしません。何とかして、彼らを助けたいからです。 21 異教徒といっしょにいる時は、できるだけ、彼らに合わせるようにしています。もちろん、クリスチャンとしての正しさだけは失わないように気をつけますが。こうして、彼らに合わせることによって、その信頼を得、彼らをも助けることができるのです。 22 良心を悩ませやすい人たちのそばでは、自分の知識をひけらかすような行動をしたり、「それは考えが足りない」などと指摘したりはしません。すると、彼らのほうでも心を開いてくれます。その人が救われるためには、私はどんな人に対しても同じ立場に立とうと心がけています。 23 これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。
勝つためのトレーニング
24 競走をするとき、優勝者は一人だけです。ですからあなたがたも、優勝するために走りなさい。 25 競走の選手はベストを尽くせるよう、何事にも節制しなければなりません。彼らは、やがては朽ちてしまう栄冠を得ようと、あらゆる困難と戦い、ひたすらトレーニングに励むのですが、私たちは、決して朽ちない栄光を受けるためにそうするのです。 26 ですから私は、ゴールを目指して、わき目もふらず全力で走ります。勝つために戦うのです。空を打つようなボクシングをしたり、おもしろ半分に走ったりはしません。 27 自分の体をむち打ってきびしく鍛練し、なすべきことができるよう訓練しています。そうでないと、ほかの人たちを競技に参加させておきながら、自分は失格者として退場を命じられるかもしれないからです。
10 愛する皆さん。昔、私たちの先祖が荒野でどんな経験をしたか、決して忘れてはなりません。神様は、雲を先導者として立てて、彼らを導きました。また、全員が安全に紅海を渡りきれるように導きました。 2 これは、彼らの「バプテスマ」であったとみなしてよいでしょう。彼らは、モーセに従う者として――すなわち、指導者であるモーセにすべてを任せて――海と雲によってバプテスマを受けたのです。 3-4 さらに神様は奇跡によって、荒野で彼らに食べ物と飲み水をお与えになりました。彼らはキリストから水をいただいたのです。キリストは、信仰に新しい力を与える力強い岩として、いっしょにおられたのでした。 5 それにもかかわらず、大部分の者が神に従わなかったので、神様は、彼らを荒野で滅ぼされました。
6 この事実から、大切な教訓を学べます。悪事を追い求めてはならないこと、 7 また、偶像を拝んではならないことです。〔聖書には、金の子牛を拝むために、「人々は座っては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。〕 8 ほかにも教訓があります。彼らのうちのある人たちが外国人の女と不道徳な罪を犯した時は、一日のうちに二万三千人もが死にました。 9 彼らのように、主がどれだけ忍耐してくださるかを試すようなまねをしてはなりません。主を試そうとした人たちは、蛇にかまれて死にました。 10 また、彼らのように、神に向かって文句を言ったり、「神のなさり方は不当だ」などと不平を言ってはなりません。そのために、神様は天使を遣わして、彼らを滅ぼされたのです。 11 先祖たちの身に起こったこれらのことは、同じことをくり返してはならないという私たちへの警告です。それが記録されたのは、世の終わりが近づいている今、私たちがそれを読んで教訓を学ぶためです。 12 ですから、よく注意しなさい。「私は、そんなことは絶対にしないから大丈夫」などと思っている人がいれば、そういう人こそ注意しなければなりません。同じ罪を犯すかもしれないからです。 13 このことを覚えていてください。あなたがたの生活の中に入り込む誘惑は、別に新しいものでも、特別なものでもないということです。ほかにも多くの人たちが、あなたがたよりも先に、同じ問題にぶつかってきたのです。どんな誘惑にも抵抗するすべはあります。神様は決して、とてもたち打ちできないような誘惑や試練に会わせたりはなさいません。神様がそう約束されたのであり、その約束は必ず実行されるからです。神様は、あなたがたが誘惑や試練に忍耐強く立ち向かえるように、それから逃れる方法を教えてくださいます。
14 ですから、愛する皆さん。偶像礼拝を避けなさい。
他の人のためを思いなさい
15 あなたがたは賢いのですから、私の言うことが正しいかどうか、自分で考え、判断してください。 16 私たちが聖餐式で主の食卓に着き、ぶどう酒を飲んで、主の祝福を求める時、それは、そのぶどう酒を飲む者がみな、キリストの血の祝福を共に受けることを意味していないでしょうか。また、一つのパンをちぎって共に食べる時、それは、私たちがキリストの体の恩恵を共に受けることを示すのではないでしょうか。 17 私たちの数がどんなに多かろうと、みな同じパンを食べて、同じキリストの体の部分であることを示すのです。 18 ユダヤ人のことを考えてごらんなさい。供え物を食べる者は、それによって一つとされているのです。 19 私は何を言おうとしているのでしょうか。異教徒たちが供え物をささげている偶像はほんとうに存在するとか、あるいは、偶像への供え物に何か意味があるとか言おうとしているのでしょうか。いや、違います。 20 私が言いたいのは、彼らのささげる物は、神にではなく、悪霊にささげられたものであるということです。あなたがたの中から、偶像への供え物を異教徒たちと共に食べたりして、悪霊と一つになる人など一人も出てほしくありません。 21 主の食卓の杯と悪霊の食卓の杯の両方を飲むことはできません。同じように、主の食卓のパンと悪霊の食卓のパンを、両方とも食べることなどできません。 22 いったい、あなたがたは主を怒らせようとしているのですか。自分が主よりも強いとでも言うのですか。
23 もし食べたければ、偶像への供え物を食べても一向にかまいません。それを食べても、神の律法には反しません。しかし、律法に反しないことでも最善とは限らず、また有益とも限りません。 24 自分のことばかり考えてはいけません。他の人を思いやり、何がその人にとって最善か、よく考えなさい。 25 こうすればよいのです。市場で売られている肉は、どれでも自由に食べなさい。それが偶像に供えられた物かどうか、いちいち尋ねなくてよいのです。そうすれば良心を傷つけることもないでしょう。 26 地上にある良いものはみな、主のものであり、あなたがたを楽しませるためにあるのです。
27 クリスチャンでない人から食事に招待された場合、出される物は何でも食べなさい。それについて、いちいち尋ねてはいけません。尋ねなければ、偶像に供えられた物かどうかわからないし、食べて良心が傷つく心配もありません。 28 しかし、もし、「この肉は偶像に供えられたものです」と注意してくれる人がいたら、その人のために、また他の人の良心のために、出された肉を食べるのはやめなさい。 29 この場合、肉についての自分の判断よりも、相手の考えが大切なのです。「なぜ他人の考えに支配されたり、束縛されたりしなければならないのですか。 30 神に感謝してそれを食べることができれば、他人からとやかく言われることはないではありませんか」と言うかもしれません。 31 しかし、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。 32 相手がユダヤ人であれ、外国人であれ、教会であれ、だれもつまずかせてはいけません。 33 これは私の生活の原則でもあり、何をするにも、私はすべての人に喜んでもらおうと努めています。だから、自分のしたいことや、つごうの良いことをするのでなく、人々が救われるのに最善のことをするのです。
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